いじめ
『いじめ』について書こうと思ったのは、ちょっと前のことだ。
書くのやめようと思ってたけど、その時に思ってた事を書いてみよう。
いじめには、タイプがざっくり2種類あると思う。
表と裏。
表は、公衆の面前で行われる行為で、この行為には周囲の人々への警告などの意味も含まれている。
堂々としたいじめとでも言おうか。
裏は、今の時代なら端末なんかで陰で悪口のやり取りするといった行為だろうか。
なぜ、いじめがなくならないのかというと、集団の中に1人そんな人がると、自分はいじめられないという安心感が生まれるからだ。
そうなると、いじめの主犯格と思われる人が罪人のように思えてくる。
これは私個人の考えだけど、
いじめを仕掛けている人は下手すると1人とかの少数で、いじめる側のほとんどが集団の心理のようなものに忠実に行動してしてるだけなんだと思う。
空気を読んで情報を集めて上手く立ち回ろうとする。いじめの対象になりたい人なんて普通に生活してる人々の中にはいないからだ。
ビジネスという目的なしでも、人は繋がりを求める。
そうする事で安心して楽しい人生が送れるからだ。
なぜ、楽しい人生が送れるかというと、そこには他人と自分を比較したり、一緒に泣いたり笑ったりといった他人と共感する喜びを感じられるからだと思う。
そこには、自分が幸せかどうか常に確認していたいという人々の本音が見える。
だから社会に出ても、プライベートで他人との繋がりが無いと人々は不安になる。
要するに人間関係を円滑に進めるうえでのワンクッションていうのがいじめなんだと思う。
だから、いじめている側によくありがちな「そんなつもりはなかった」発言は必ずしも嘘では無いのかもしれない。
さらっと書いたけど、いじめられた方はたまったもんじゃない。
いい迷惑だ。
いじめは、程度の差はあれど、その人の人生を変えてしまう行為だと思う。
病気になったり死を選んだり。
そこまでじゃなくても人への不信感や警戒心が
強くなることもある。
しかしこれは、悪いことばかりではないのも事実かもしれない。
過去にいじめに遭ったけど、今は仕事で成功している人や幸せになってる人もいるからだ。
私は怖がりなので、今は人を信用することが出来ない。
若い頃は人を心から信じていた。
今思えばある種のいじめに遭っていたのかもしれないけど、それ以上に何かが作用していた。
無意識に他人の心を動かすっていう魅力が、若さや未熟さにはあると思う。
散々辛酸をなめて、なお生き延びなくちゃいけない人生100年時代。
だからこそ終活や働き方改革などが見直され始めてるんだと思う。
いじめも悪口も無くならないなら、自分の人生を少しでも豊かに過ごす工夫をして、言葉は悪いけど、利用出来るものは利用していこうよって感じなのかな。
いじめは一生なくならない。
まだしんどいもん。
人生にいじめはつきものだ。